日本がトルコに住む理由
※かつて日本という国が存在した。
だが穏やかな眼差しの彼の国は、いまはただ文化としてその存在を主張するばかりである。
というパラレル設定でございます、広い心でお読みくださいませ。
世界の国々で数ヶ月、転々と暮らした日本がトルコに身を寄せることになり1年が過ぎた。
次はうちに是非と引く手数多の日本、来たばかりの頃に永住をすすめてみれば笑顔でありがとうございますと返された。
…普通は肯定の返事だよな?普通は。
実ははっきりと永住の約束をとりつけた訳ではないと、日本を連れ出しにわざわざ出向いてきたフランスや中国に喧嘩を売られて気付いた。
しかし、あのときの返事の真意を確かめるどころか、告白すらも出来ずにいる。
自分がそこまで腰抜けであるとは思わない、思いたくはないが彼の前では普段の強気が出ないのだ。
妙に調子が狂う、けれどそれが心地良い。
そして愛しい。
夜毎飽きずに月を眺める日本の横顔は憂いを帯びて見え、あまりにも儚くトルコは胸を締め付けられずにはいられない。
彼にはいつも、笑っていてほしい。
悲しげにではなく寂しげにではなく、ただ穏やかに。
もちろんひたすら愉快気なのも捨てがたい。
せめてその憂いが紛れればと、トルコは(遠慮もあり時々ではあるが)彼を酒に誘うことにしていた。
「月見酒と洒落こみやせんか。」
まぁ、と嬉しそうに両手をあわせる日本に安堵する。
月を見て…というのはかつて自分が日本にされたもてなしだった、懐かしさがより寂しさになりはしないかとらしくもなく怯えた。
穏やかに酒を酌み交わすうち、いつも自分の方が良い気分になっている気がする。
まぁ当然か、いい酒にうまいツマミに何より世界一の別嬪が目の前にいる。
「なぁ、日本さんそのフランスの野郎はともかく兄さんとこは、その、いいんですかい?」
何度目かのふたりきりの酒宴に口が軽くなったのか、それとも押さえられなかったのか、トルコはまどろんだ目で日本に尋ねた。
「え?」
ご機嫌に頬を染めていた日本が首をかしげる。
ああ、しまったと思うがもう、ごまかせねぇだろう。
「俺のところよりその、そっちのが元の場所にも近えし、懐かしいんじゃねかと思いやして。」
ああ、と日本が合点がいったと頷いた。
「兄が、あなたに何か仰ったんですね、すみません。」
「あ、いや、俺ぁいいんです、俺はあんたがいてくれりゃあそれで、もう本当に。」
「私にも、子供のような理屈で怒ってくれました。私に効き目が無いからあなたを揺さぶる事にしたんでしょうね…本当に、仕方の無い兄です。」
ふふふ、と笑う彼はまるで母のように兄の事を語った。
ああ、俺はこの目を知っている。
かつて消えていった強く美しい女たち、ビザンティンやエジプト、彼女たちのような存在に彼は近づいているんだろうか。
「いや、俺も兄さんの気持ちはわかりまさぁ…その、なんで俺んとこにいてくれるんですかい?」
仮面を外して見つめれば彼には何もかも見透かされているような気がした。
「兄とも月見をよくしました、何回も何万回も。だけど…私にはあなたと見る月が一番…綺麗だと思うのです。」
だから、と目を伏せて少し迷うそぶりを見せる日本。
その先の言葉を聞きたくて、トルコは身を寄せ日本の頬を包みこむように触れた。
トルコの指に誘われるように、顔を上げるとはにかんで日本は続けた。
「ずっとあなたの近くにいられたらと、思っていました。図々しいとわかっていても、永住してしまえば良いと仰るあなたのお言葉に甘えてしまったのです。本当にトルコさんは、私を甘やかす天才ですね…。」
トルコの温かい掌に自分の冷えた手を重ね、日本はうっとりと目を閉じる。
たまらずトルコはもう片方の腕を日本の腰にまわし、自分の胸に閉じ込めた。
ああ日本さん、俺ぁうぬぼれちまいますぜ。
あんたが俺を選んだのは、消去法じゃなく、あんたが俺のもんだからなんだって。
声にならぬ喜びに、トルコはただひしと日本をだきしめた。
これが恋かこれが愛か、ああ愛しいひと、あんただけだ。あんただけが俺の心をかき乱し、幸福で満たすんだ。
「日本さん…」
なんて言やあいいんだ。男ならここで一言決めなきゃならねぇ、ああだけど、ええいちくしょうなんて言やあいい。
「あんたこそ、俺を虜にする天才だ。俺の甘い災い、あんたしかいない、ずっとずっと側にいてくれ。」
精一杯告げた言葉に、それでも足らないとばかりに愛よ伝われと、トルコは日本のつむじに恐る恐るキスをする。
愛しいひとは小さく頷くと、うっとりと俺の胸に顔をうずめている
日本は蕩けそうな笑顔を浮かべていたが、あいにくトルコの目には入らない。
まぁ感極まったトルコの表情も日本の頭の上にあるので、おあいこか。
トルコが、抱きしめたまま日本の頬を撫でれば犬猫が甘えるように頬をすりつける。
ふとトルコの指が日本の唇をかすめた、柔らかな薄紅の、ふれたくてもふれられなかったそれだ。
トルコは、そっと滑らかな顎を指先にのせ顔を自分の方へ向ける、可憐な唇にふれたままの色黒な自分の指は罪悪感を煽ってくれる。
自分にとって彼がどれだけ特別か胸がまた締めつけられる。
それでも俺はこのひとに触れる事を許されたのだ、誰でもないこのひとに。もう他の誰にも何処にも渡すものか。
「トルコさん…?」
うっとりとした声に誘われる。
「愛してやす、俺の唯一、俺の愛。」
言いながら互いの唇は距離を無くした。
ああ、柔らけぇ…
恍惚とした感動に一瞬固まれば、日本の方からもう一度唇を重ねられた。
もちろん触れるだけの、可愛いキスだ。
たまらない、何度も唇を啄むようなキスをして、唇の柔らかさと温度を確かめる。
息を止めているウブな彼の様子になんとか余裕を取り戻せたトルコは内心ほっとした。
目を潤ませている彼が愛しくて頬に目尻に額に顔中にキスをすると、ふひゃっと日本が首をすくめた。
「トルコさん、おヒゲくすぐったいです。」
困ったように笑う彼に、目尻がさがる。
甘えた声音に、肩の力が抜けた彼に今度は柔らかい暖かいものが胸に広がる。
にやりと笑って、ちゅっちゅっと音を立てて口付ければ日本はきゃぁと可愛い声で身をよじるのだ。
ああもっと、もっともっと、甘えて欲しい、可愛い顔を見せて欲しい。
俺だけを頼って甘えて可愛らしい仕草を見せて欲しい、なんて貪欲な欲望を抱いている筈なのに心はやけに清清しい。
かつての大帝国が、このひとの前では、年下な自分を強く雄雄しくみせるのに精一杯だというのに何故こんなにも心は穏やかなのか。
無欲で儚いこの人がいつか消えてしまうことが恐ろしくてならない。
けれど、そんな不安を感じさせてはならない。
甘えられたい、頼られたい、リードしてあんたを喜ばせたい。
全て、あんたが幸せになるように、俺の腕の中で幸福であるように。
「愛してる日本さん、俺の唯一、俺の太陽。」
背を曲げて視線を合わせて囁けば、花のような笑顔で祝福が告げられる。
「愛しています、私のお月様、私に届く唯一の光。」
日本から首に腕がまわされ、抱きつかれる。
精一杯背のびをして自分を抱きしめる日本を、今は穏やかな心でトルコは抱きしめた。
合わせた胸から伝わる鼓動、今が永遠であればいいと、祈りをこめて。
同じ事を願い唇を重ねるふたりを、地中海の月だけが見ていた。