黄昏時に惑う月


恐ろしいのは、消えること忘れること
なにより、あなたを失うこと
この世で一番、こわいこと



灼熱の太陽が、今日は心なしか穏やかで風が心地よかった今日。

日本が黙祷を過ごした同じ場所で、気だるい暑さの夕刻、日本の庭先でシャアシャアといっせいに鳴く蝉達の声に囲まれ、トルコは立ち上るゆらりとした影を見つめていた。

何がしたいのか
何を訴えるのか

警戒するように、蝉達が一層強くがなりたてたかと思えば、ゆらいでいた影がスイとまとまる。
まるで人ひとりが佇んでいるかのように。

なぜか、夕焼け空を見上げているように見えた。
そして、くるりと、それは振り返る。
ピタリ、と蝉の声が止む。静寂が支配する庭。
ただの黒、人型の闇の塊はじっとトルコを見つめている。

国にいる魔物とは違う、けれど諸手を挙げて歓迎出来るものでもないように思う。第一、良いものならば何故、庭は気配を殺している?
日本がいたなら手段も講じられたろうか、留守にしている家人の穏やかな微笑を脳裏に描く。

影が、ふっと前進した。
トルコとの距離が、瞬間半分になる。間合いに入るにはまだ、足りない。

トルコは目つきを険しくする。影が足元から明確な姿を表し始めたのだ。さあと風に舞う砂のように、闇が消えてゆく。
白い洋服に二本の足、トルコは戸惑う。
軍服だ、姿勢の良い腿に腰と刀を携える腕、しゃんと張られた胸元が、襟には見慣れた花の意匠。
そして涼しげな顎先、凛々しく可憐な唇に頬にかかるまっすぐな黒髪、ちょこんとした鼻先が、見え、そして、次は。
そう、目だ。
光を全てを呑みこむ黒い目が、見えるはずだ。
俺を見つめる血気盛んなまっすぐな、その目を、俺は期待している。

現れたのは閉じられた瞼。
俺は思わず身をのりだす、影の、いや彼の唇がニイと笑い、開かれようとした。
そうだ、俺の名を呼ぶために開かれるのだ。
そして、瞼は開かれる、扇情的な瞳が俺を、見る、ために。
トルコは腰を浮かせ、足を踏み出そうとした、まさにそのとき。



「い け ま せ ん よ。」



耳なじんだ声がして、トルコの視界は遮られた。
夏でもひやりとした手のひらが、トルコの目を覆ったのだ。
そのまま、動けぬ様にかぐるりともう片方の腕も頭にまわされる。

聞き慣れない犬のうなり声

ぽちくん、と飼い主の声

ワンとひとつ大きな声

しばし間があり、ジッという蝉の声を合図に庭は息を吹き返す。
その短い間、トルコは日本の細い両手に押さえつけられ微動だに出来なかった。

「もう、よろしいですよ。」
トルコの顔をそっと上むかせ、日本は手を離した。一瞬瞼ごしの夕焼けの明るさを見てから、トルコは目を開ける。

「ただいま帰りました。」
こちらをのぞき込む穏やかな日本の笑顔は、いつもと何も変わらない。
「おかえり、なせい。」

トルコは全身から汗が噴き出すのを感じた。
暑さなど、忘れていた。
そう実感し今度はなぜかゾッとした。

「あれは、こわいものですから、もう目を合わせようとなさってはいけませんよ。」
優しく笑ったまま、日本はトルコの額の汗を拭った。
「はあ…。」
「まあ、めったには無い事なんですが。」
「そりゃあ…よかった。」
「この時期は、彼の気配が強くなりますから大丈夫だと思いましたが、逆手にとられてしまったようですね。ぽちくんを連れて出たのは軽率でした、すみません。」
「ああ、ありゃあ…犬が苦手なんですかい?」
「ええ、ぽちくんはとても強い子ですからね。」
「はあ。」
いつも愛らしい日本の忠犬は、お世辞にも喧嘩に強いとは思えないが、ふいと視線をさまよわせれば庭先、トルコと影のいた場所の中間あたりでぽちはまだ睨みをきかせている。
その後ろ姿は凛々しいと言えなくもないがやはりふかふかとして、かわいらしい。

「ありゃあ、何です?」
「こわいもの、ですよ。」
寂しげに日本は微笑んだ。

「あなたが見つけてくださって、嬉しかったようですね。珍しいことですが、あなたを呑み込もうとしたようです。壊すばかりのものと思い、侮りました。…本当に、すみません。」
申し訳ないと頭を下げる日本の様子から、やはりよくないものだというのはよくわかった。
だがいったいなんだったのか。
芯から説明する程には日本も知らないのか、それともお国柄自分には掴みきれぬ価値観のものなのかは推し量りかねた。

「すぐ、夕飯の支度を致しますね。」
「ああ、手伝いやす。」
「トルコさんはお疲れでしょう、すぐ出来ますからぽちくんとお待ちくださいな。」
クゥーンと甘える声がして腕に濡れた鼻がすりつけられる。ぽちも心配をしてくれたのだろうか。
膝に乗せればしっぽを嬉しげに振りおとなしくしている。

その様子に日本も目を細め、台所へ向かう。

「あ。」

小さく声を出した日本に、トルコも何事かと日本に目を向ければ
「お留守番ありがとうございました。」
花のような笑顔をもらってしまった。

あの『こわいもの』は、何故かつての彼の姿を模したのか。
俺をその身の内にひきこむためなのか。
こわいものが見せようとしたのは、かつての彼なのかもしれない。
だが自分が息をのみ、身を乗り出し見守ったのは何を求めてだったのか。
かつての彼の瞳に憧憬の念をもって写されていた自分をこそ、求めていたのではないかと自嘲する。

彼が無粋な火傷により地に伏し、降伏を決めたかつての今日。
この腕で支えられたらと願うばかりだった無力さに、あの日のトルコは過去を思わずにはおれなかった。
過去を求めても得られないと知っている。
そして、決して捨てられない振り切れないことも知っている。

もし過去の繁栄という夢に耽溺したなら、今が消えてしまったなら?
どんな痛みを伴っても彼が彼である限り、俺が俺である限り過去を抱えて生きていく存在し続ける、それが国の国たる役目だ。
今も未来も消えてしまったなら、ああ、全くそりゃあ恐ろしい。確かにそりゃあ、こわいもん、だなあ。

「あれと目を合わせると、気が触れてしまうそうですよ。不安な世情になるとよく現れるんです。」
夕飯を食べながら、日本さんが詳しく教えてくれた『こわいもの』の正体は悪霊のようなもので、確かに人間には怖いだろうってモンだった。俺は人とは違うし、何より強いから大丈夫だろうと思ったらしい。期待に添えず、俺は危ういところを晒してしまったようだが。

「お気をつけくださいね。トルコさんはただでさえモテモテなんですから。」
心配まじり冗談まじりとはいえ、珍しい彼の悋気に、俺はこわいモンに感謝した。
それにまぁ今日という日に、日本さんの気を俺の方に向けてくれたってんなら惑わされた甲斐があったってもんだ。
上機嫌で食事を頬張るトルコは、更に重ねられた私を置いていかないでくださいねという日本の言葉に、今日を愛の記念日にしてもいいとさえ思った。

災い転じて福となす。

昔の日本人はうまい事言うぜ。彼も俺も、これからそうであればいい。
時間はいつも前へと流れているのだから。



恐ろしいのは、消えること忘れること
なにより、あなたを失うこと

幾重もの私 幾重ものあなた

あなたは 私

私は あなた





09.08.15